どんぐりの世界に答えを出すブログ

世の中の全ての問題に答えを出すブログ。学校では答えを教えてくれない日常や実際、人生上の問題に「答え」を出していきます。あなたが疑問に思う問題も募集中。

「言語が世界を分節する」の具体例での解説と考察

「言語が世界を分節する」とは

 解法論の一番最初の記事がコラムから入るというのはどうかと思いますが、出典のある考えから書いたほうが説得力が増すと思いますので書きます。今回と次回で説明する二つの概念は、恐らく解法論の中核を担っていると思われる概念です。

 さて、「言語が世界を分節する」について解説していきましょう。この概念は言語学か何かに実際にある概念だと思うのですが、出典が確認できなかったのでとりあえず僕の解釈で話します。
 いけませんね。

 「言語が世界を分節する」とは、もともと一つの連続した世界を言語が分解して人間に理解させていると考える概念です。言語が違えば人間の理解の仕方が変わり、また、言語が僕たちに見える世界を形作っていると考えます。
 具体例で説明しましょう。

具体例1:虹は7色じゃない

 例えば、虹の色は7色ではありません。あるいは、赤外線と紫外線を足して9色なわけでもありません。虹の色は本来連続しているはずであり、何色と数えられるものではないからです。

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世界に答えを出すブログ作成

 なのになぜ、7色というのかというと、日本語にはそれだけ対応する色の言葉があるからです。
 例えば、南アジアのバイガ族には色を指す言葉が赤(明るい色)か黒(暗い色)しかないそうです。その結果、彼らは虹を2色ととらえています。彼らにとっては日本でいう「赤、橙、黄」は全て明るい色(赤)、「緑、青、藍、紫」は全て暗い色(黒)となります。

 さて、これが「言語が世界を分節する」ということです。本当は世界(虹の色)は連続していて無限に色があるのに、言語によって世界(虹の色)は分節(分類)されて、有限の色になるのです。日本語で虹色を表現しようとすると、青も、緑よりの青も、藍よりの青も、全て青色に分節(分類)されるのです。

具体例2:音楽の種類

 音楽は、もともとJ-POP、ヒップホップ、ロック、ジャズ、アニソン、K-POP、洋楽、演歌…と種類があるから、そういう名前がついたのではありません。
 名前を付けたから、音楽がJ-POP、ヒップホップ…と分かれたのです。

 もし、J-POPヒップホップというジャンルを作ったら、J-POPに近いヒップホップがそこに分類されるでしょう。
 同じようにヒップホップロック、ジャズロック、ジャズアニソン…というジャンルを作れば、無限に音楽の種類が作れます。

 つまり、最初から世界(音楽)は分かれているわけではないのです。言語(ジャンル名)ができたから、世界(音楽)が分かれたのです。

具体例3:馬に足はあるか

 さて、馬には脚が4本あります。
 でも、脚と言っているから人間の足と同じに分類されるだけですよね。
 特に前脚2本に関しては手って呼んでもいいじゃないですか。

 いえ。違います。本来手って呼ぶことも足って呼ぶことも間違いのはずなのです。

 だって、人間の手であれ、足であれ、馬の脚と全く同じものではありません(物理的な意味で)。その物理的にまったく違うものを、(胴から生えた地面に立つための棒だからという理由で)同じように足/脚と呼んでいるのです。もし、足/脚という言葉がなかったら、人間の足と馬の前脚2本が同じものだと考える人は少なかったことでしょう。

 これも、言語が世界(足/脚)をひとまとめに分節したからこそ、人の足と馬の脚は同じものになったのです。なんだか本当は分割された世界をひとまとめ(一体)にしたみたいで逆に聞こえますが、逆ではありません。

 本当は下(↓)の画像のように足~脚(さらに足/脚~手)というのは連続なのです。

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 人間の足でさえ人によって個人差があります。そしてその個人差の延長線上に馬の脚があるといえるでしょう。なのにそれらをひとまとめにして足/脚と考えることを可能にしているのは言語なのです。(さらに胴体から生えた2本のものという意味では足/脚~手とも連続しているが、手を同じ足/脚のくくりに入れないようにしているのも言語といえる。)

 ところで、今まで世界(虹の色)、世界(音楽)、世界(足/脚)なんて書き方をしてきましたが、これも正確ではありません。虹の色も、音楽も、足/脚もすでに言語によって分節されたものです。
 なので正しい書き方は、世界(言語で分節する前の、もしくは言語で分節したときに一番上の階層にある、ありのままの世界)はすべて連続であり(分けられていない)、言語によって分節される、です。

どんぐりの考察

 さて、世界はもともと連続であり、言語によって分節されるとのことですが、例えば、目の前の机に置いてある消しゴムはどう見たって机から切り離されています。
 そう、そういう物理的な意味で連続(一体)なのではありません。

 この説明が正しいか分かりませんが、恐らく抽象的な視点から見た時、具体物は連続しているということでしょう。

 例えば、消しゴムでできた机を思考実験的に作れば、消しゴムと机の中間に位置するものができます。さらに、消しゴムよりの机、机よりの消しゴムとどんどん作っていけば、消しゴムから机が連続します。(笑)(ちなみにその形態は何であっても構いません。消しゴムよりの机が消しゴム付きの机であっても、20%消しゴム製の机であっても。)
 そして、その連続したものの中で、ある範囲のものは消しゴムと呼ばれ、ある範囲のものは机と呼ばれ、そしてそれらはそういう言語があるから始めて別々のものとして考えられるのだという話です。

 ありえませんね。(笑)
 言語を持たないサルだって、消しゴムと机が同じものだとは考えないでしょう。そうでなくても、それらを使って芸を教えるなどすれば、消しゴムは書いたものを消すためのもので、机は何かを書くためのものだと理解することでしょう。いや、というか言語がなければ分節されないのであればサルは消しゴムとバナナの見分けもつかないことになります。

 僕には、この場合は「言語が世界を分節(して認識)する」というよりかは、「分節して(認識し)、そのあとでそれに対応した言語が割り当てられる」という方が正しい気がします。それに、それを肯定しないと人間のボキャブラリーはサルの時から変わっていないことになってしまいます。

 でも、今まで説明してきた例を根拠に、「言語が世界を分節する」ことがあることも否定するつもりはありません。要は僕的には、この話は人間は「言語が世界を分節する」ことと「分節して言語を割り当てる」のバランスの中にある、ぐらいの話にしか思えてなりません。
 いけませんね。

 「言語が世界を分節する」は言語学者ソシュールの考えだそうで、彼によれば言語が存在する前に物事や観念は存在しないらしいですが、サルを考えてみるとそんな気がしません。

 まあただ、僕もうろおぼえのものを自分の言葉に直してこの記事を書いているので、もしかしたらちょっと違うところがあるかもしれません。いつか出典を確認しておきます。