どんぐりの世界に答えを出すブログ

世の中の全ての問題に答えを出すブログ。学校では答えを教えてくれない日常や実際、人生上の問題に「答え」を出していきます。あなたが疑問に思う問題も募集中。

論理の飛躍はどこで決まるか

問題編

 

問題:論理の飛躍はどこで決まるか?論理の基準は何か?

 今回の問題はどこかの本に載っていたような気がするのですが、出典が確認できなかったのと自分の解釈を混ぜて説明するので、一応どんぐりの仮説のカテゴリーで出題します。

 例えば、A「①彼女は彼氏に自分のケーキを食べられた。④だから、彼女は喜んだ」という文は理解できません。
 しかし、B「②彼女はケーキアレルギーで、ケーキを食べられず困っていた」を付け加えたら?多分多くの人が(ケーキアレルギーが存在するかどうかは置いておいて)理解できるでしょう。
 では、C「③人は困っているとき、それを誰かが解決してくれると喜ぶ」を付け加えて次のようにしたら?

A「①彼女は彼氏に自分のケーキを食べられた。④だから、彼女は喜んだ
B「①彼女は彼氏に自分のケーキを食べられた。②彼女はケーキアレルギーで、ケーキを食べられず困っていた。④だから、彼女は喜んだ」
C「①彼女は彼氏に自分のケーキを食べられた。②彼女はケーキアレルギーで、ケーキを食べられず困っていた。③人は困っているとき、それを誰かが解決してくれると喜ぶ。④だから、彼女は喜んだ」

 Cは理解はできますが、ほとんどの人はBまで言えば十分でしょう。③の文は、不必要な文と言えます。

 ここで今回の問題というのは、「②の文は論理的な説明に必要だけど、③の文は無くてもいい。では、どの文が必要で、どの文は必要ない、というのは、一体何が決めるのでしょう?」ということです。

興味わかなそうな話題なので捕捉

 例えば、皆さんの手元にでかでかと「」とかかれた消しゴムがあると思います。(そんな消しゴムは存在しませんが察してください)
 その消しゴムを見てみると、多くの場合(私の「」消しゴムはそうなっています)、「これは食べ物ではありません」と書いてありません。それはつまり、その消しゴムを食べモノだと思う人がいたとしたら、その人が消しゴムを食べてもその人に非はないということです。

 じゃあ、もし消しゴムを食べておなかを壊した人がいたとしたら、その人がDoragonfly鉛筆を訴えても、裁判で負けるのはなぜでしょう?
 もし食べたものが「消しゴム」じゃなくて「農薬入りみかん」だったら、恐らく裁判に勝てるのはなぜでしょう?

 「農薬入りみかん」は毒だから?だったら「消しゴム」は毒じゃないの?
 「みかん」は毒じゃなくて、「農薬入りみかん」と「消しゴム」は毒だって記述が、法律の中にあるの?

 今回の問題は、言い換えれば「『消しゴムは食べ物ではない』という説明を、消しゴムに書く必要がないのはなぜでしょう?」ということです。

おまけ:論理の飛躍はどこで決まるか?論理の基準は何か?(数学風記述)

 「A⇒C(AならばC)」という説明は不十分だ。
 「A⇒B. B⇒C. よってA⇒C」と書くのが正しい。だが、
 「A⇒B. B⇒D. D⇒C. よってA⇒C」と書くのは間違いではないが冗長であり、Dという説明は不必要である。…(*)

  (*)を満たす命題A,B,C,Dがあるとする。ここで、A⇒Cを証明する際の説明に、Bは必要だが、Dは不必要である。
 何がBを必要とし、Dを不必要とするかを決めているかを説明しなさい。言い換えれば、A⇒B、B⇒C…等の「⇒」という記号を記述するのに必要十分な条件を求めなさい。



解答編

 

解答:論理の飛躍はどこで決まるか?論理の基準は何か?

 さて、正解を発表しましょう。正解は…

 常識が決める

 んです。

 例えば、Aの文は論理の飛躍が起こっていると判断されました。

A「①彼女は彼氏に自分のケーキを食べられた。④だから、彼女は喜んだ」
B「①彼女は彼氏に自分のケーキを食べられた。②彼女はケーキアレルギーで、ケーキを食べられず困っていた。④だから、彼女は喜んだ」
C「①彼女は彼氏に自分のケーキを食べられた。②彼女はケーキアレルギーで、ケーキを食べられず困っていた。③人は困っているとき、それを誰かが解決してくれると喜ぶ。④だから、彼女は喜んだ」

 これは、皆が「ケーキを食べられたら悲しむか怒るかするのが普通だ」と知っている(=常識)のに、その逆のことが起こったから論理の飛躍が起こっていると解釈されたのです。逆に、もしも「②だから、彼女は怒った」だったら、Aの文は論理の飛躍をしているとは思われることはなかったでしょう。

 Cの文は、論理の飛躍はありませんが、④の文はなくてもわかる、不必要な文です。これは、皆が④の文は説明しなくても知っている(=常識)から、要らないと判断されたわけです。

 つまり、常識に無いことは説明の必要があり、常識にあることは説明しなくていいということです。

法律も常識を利用している

 問題編 で「消しゴムに『これは食べ物ではありません』と書かなくていいのはなぜでしょう?」と問いましたが、これは、法律も常識を基準に書かれているからです。常識(消しゴムは食べ物ではない)は法律の中に書く必要はなく、また、裁判も人はある程度常識の範囲内で行動することが前提で行われるからです。

 だからこそ、法律を書くときに、「この法律は日本語で書く。日本語とは、日本国固有の言語である。日本国とは、ユーラシア大陸の東側にあり…」と永遠に書く必要もないのです。

数学などの学問は突き詰めれば公理を出発点にしている

 ただし、数学などの学問は、突き詰めれば公理を出発点にしています。公理とは、根拠抜きに正しい、とされた前提のことです。

 問題編の最後に、数学風に問題を記述しました。

 「A⇒C(AならばC)」という説明は不十分だ。
 「A⇒B. B⇒C. よってA⇒C」と書くのが正しい。だが、
 「A⇒B. B⇒D. D⇒C. よってA⇒C」と書くのは間違いではないが冗長であり、Dという説明は不必要である。…(*)
 (中略)A⇒B、B⇒C…等の「⇒」という記号を記述するのに必要十分な条件を求めなさい。

 この問題の答え自体は、「常識が決める」でもいいです。例えば高校になったらテストで、\(x^2=1\)の答えは、すぐに\(x=±1\)と答えることができ(A⇒D)、わざわざ\(x^2-1=0\)、\(\left(x+1\right)\left(x-1\right)=0\)だから、\(x=±1\)と(A⇒B⇒C⇒D)説明しなくていいのはそういうことです。

 しかし、なぜそうなるの?と聞かれて厳密な証明を求められたら、数学ではさらにA⇒Dの間に入る「⇒」を増やすことができます。そして最終的には、「公理」という、言ってしまえば、なぜそれが正しいか、ということを証明するのをあきらめた定義までいって落ちつくのです。

まとめ

  • 論理の基準は常識。
  • 常識に無いことは説明の必要があり、常識にあることは説明しなくていい。

 

今回使った解法

sekakota.hatenablog.com