どんぐりの世界に答えを出すブログ

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論理の基準後でこれを考察に上げないか

前書き

 この記事は「論理の飛躍はどこで決まるか」「論理なんてものは存在しない」の記事を書く数か月前、僕が論理について考察していた時のメモをそのまま記事にしたものです。

 僕は、論理の飛躍がどこで決まるかについて昔本で読んだことがあった気がして、それを思い出しながら論理について考えていた時、論理が何なのかわからなくなりました。僕はそういうとき、メモ帳に自分の考えをそのまま書き出して目に見えるようにしながら考えを整理するのですが、この時も、論理についてメモ帳に考えを書きだしていました。

 それを後から見返してみると結構面白かったので、そのまま記事にしてみました。メモのファイル名をこの記事のタイトルにし、メモは、太字や改行などは手を加えてありますが、一字一句はそのままにしてあります。「論理の飛躍はどこで決まるか」「論理なんてものは存在しない」の記事の考えに至る一歩手前のところまで考察したメモになっています。
 僕は、このメモ中の考えを通して「論理」というものに疑問を持ち、もともと問題カテゴリーにしようとしていた「論理の飛躍はどこで決まるか」をどんぐりの仮説カテゴリーに移動し、それと同時に「論理なんてものは存在しない」の記事を書くことにしたのです。

 しかし、このメモは頭の中の考えそのものなので結構読解力がいります。まあ、今回は内容から何か得るというより、読み解くこと自体を楽しむといいかと思います。(笑)
 ちなみに今回は太字の使い方がほかの記事と違って、このメモにおいて考えの転換点となる部分を強調してあります。正しい部分というわけではなく、後から覆る可能性もあります。

sekakota.hatenablog.com

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実際のメモ

 論理の基準とは、A⇒Bという説明が納得できる基準です。
 説明に必要なものだけでなく⇒という記号を成り立たせるそのものも言うことにする。ただし、ここでいう常識は本物の常識というより、論理的常識のほうが正しいのだろうか。

 例えば、1+2=2+1を理解できるようにしているものは何だろうか。数学者全員の見解ではなかろうか。つまり、常識というよりは同意、でしかない気がする。

 例えば、凜ちゃんは怒ったということは理解できず、としたら理解できる決めているものは何か。説明が正しいかどうかという基準です。

 演繹、言い換え、のみか。言い換えについては言語ゲーム。論理ではなく表現方法が言語ゲームである。だが、日常上の論理については言語ゲーム、というよりかは常識を利用している面はある。

 嫌日常の論理についてはそもそも公理がないから別に構いはしないわけか。

 だが、演繹はどうだ?これは常識の利用というよりか能力の利用ではないのか?説明を行い理解できなかった場合、(その場合はキャパを超えた時などいろいろあるだろうが)

 うん?やっぱ演繹は違うか。演繹はちゃんと常識、または常識的なIQがなくてもいけるはず。だって例えば自然数⇒整数は、1が自然数であるということを<知っていれば>それが整数であるとわかる。<知っていれば>は知っていなくても定義ってことか。

 結論:論理の基準は常識というより常識的な考えであり、少数派が多数派になれば論理の基準は変わる。

 常識的な考えとは全体の90%の一致した考えというのは、果たして正解だろうか。平均か。どちらにせよ個々が全体に合わせていちいち論理の基準を変えているわけではないだろうから、個々は自分の思うように論理の基準を作ってやっていることになる。

 そう考えるとそもそも論理の基準は連続値ではなく飛び値。ゆえに、その飛び値の平均だからそれは90%の一致した考えに等しいではないか。飛び値であれば両者が共存することはない背反であり、平均を取ることは不可能である。

 説明が表した事象を的確に説明できたとしたら(meaningそのものを伝えられたとしたら(meaningに因果など人間が抽象化したものは入り込む余地はそもそもなくないだろうか、もしあるとしてもそれは人間のキャパを超えた膨大な因果のはずだ、ってか、例えば誰かが誰かをいじって誰かが怒ったとしてもそれは物理レベルから因果分解可能である(というかその物理にさえ公理はあるのではないか?)。
 だが、数学はどうなんだろう。その因果分解をすべて公理のレベルまで落として理解しているのであれば、そもそもmeaningがあるのではなく、数学は人間が作り出した因果上で動くもの、そこで、最初から抽象化された飛び地の物体と考えることができる。これは、meaningがなぜ理解できるかということを問うたということではないのか))、そのあとは説明の余地がない。それを理解できないのはそもそも能力がないからである。(いや、その理解とは自分の中で公理のレベルまで落とし込んで理解することを意味するのではないのか?そもそも、自分がなぜ理解しているかを説明することは不可能である。自分の能力に対する証明は経験的に不可能だったよね。
 もし、その公理のレベルまで落とし込んだものを伝えられたとしたら、うんそうだ、)十分な理解力があればそれを理解可能である。その点に関しては90%の一致した考えを取るのは間違いである。(となると、人間のレベルでは公理に落とし込んだもので伝える感じで、それをmeaningと呼ばず、meaningは本質そのものだと呼ぶのなら、meaningに人間が抽象化した因果は存在しない、っていうか無限にある。

 公理に落とし込んだ説明を理解できなかったとしたら、つまり、それはつまり、(言い換えは違う)演繹を分からないのだとしたら、いや、でも演繹を分からないのはあり得ない。それはその公理そのものを理解していないことになってしまう。

 となると、公理は常識によって決まるというのは全然問題なく考えられるから、常識を理解した全ての人は、数学を理解可能である。(ただ、その理解した数学が本物の数字の性質に一致しているかどうかは別問題だと思うが。それはなぜだ?

 いや、間違えた。公理を決めた全ての数学者は数学を理解可能である。

 ちなみにじゃあ、現実の事象は何だ?それは、常識という公理があると考えていいのか?

 ただ、公理は突き詰めたのちの終点であり、常識は暫定の基準であって、分解しようと思えばあと数段階ほどは落とし込めるのでその意味では公理とは言えないかもしれない。ちょっとこの表現には考える余地がある。

 もう一つ。現実の事象に因果はあるのか?無限の因果がある。もし終点が存在せず、無限に分解可能なら、無限に人間が抽象化した因果というものは存在するだろう。でも、その無限の抽象化は果たして正しいのだろうか。

 具体物そのものに、因果は。。。いや、終点=すなわち出発点が存在しないのなら、どこからも始めようはないから、因果というより、meaning(本質)そのもので理解すべきだろう。つまり、出発点に因果が存在しないなら、そもそも因果は存在しないということだ。

 誰かをなぐる。その人は怒る。一体因果をどこから始めればよいのだろう?どこからも始められない。つまり、meaningそのものとして理解したほうが正しい。また、途中から因果を理解したとしても、その間も無限に分割可能であると仮定すれば、どのレベルの因果が正しいだろう?そんなもの不可能である(というか分割した終点を公理といい、その公理がないのだから、その因果の分割の出発点もないということだ)。

 それはつまり、IQ(もしくは頭の良さ)は、事象そのもの、公理を作る前の段階を理解できる力、ということだろうか。公理を作る前の段階(meaning、本質)をIQによって理解し、その後、公理を作る。そうすると、IQを根拠とせずに数学を組むみ上げることができる。(IQは明確な理由になっておらず気持ち悪いから)

 ちなみに繰り返せば、演繹は誰もが理解可能である。なぜなら、演繹ができないことはその公理自体を理解できないことを意味するからだ。(もし理解できない人がいたとしたら、それは公理がたくさんありすぎてキャパを超えているからだろうか。場合によるが、それが最も大きな具体例かもしれない)

 ちなみに、言い換えは説明の範囲内であり、公理のmeaning(自然そのものmeaningではなく、人間が作った公理のmeaning)を理解していれば問題ない。言い換えは説明の手法という別の話である。

 論理の基準は自分の中で再構築する必要性がある。?